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中神英子「砂丘」孤独 [something blue]


砂丘   中神英子 

よる 鳥が来て
わたしのかたちで啼くので
私は砂を握り眠る
鳥がわたしの両手に翼をそえて
その啼き声通り
わたしが あした はろばろと歩む
砂丘を作ってくれるように
やわらかに美しく流れる風紋と
乾いた清涼な空気の中に
新しい夜明けをもって
立てるように・・・・・・・・・・・・と
まだくらいうちに
わたしの方向へ鳥が来て
わたしのかたちで啼くことを
わたしは知っているので
よる
わたしはわたしの分の砂を握り眠る

                   ※
 この詩は私を私の知らない異次元への世界へとひきこんでいく。
    
    「よる 鳥が来て
     わたいのかたちで啼くので
     わたしは砂を握り眠る」

 で始まり、声高でも刺激的でもなく、静かにかたられていきます。
 決して今まで見たこともない。聞いたこともないとは強く感じないのですが、これまでの私の世界の
向こう側を通っているような気がします。
  
    「わたしがあした はろばろと歩む
     砂丘を作ってくれるように」

 その世界は決して堅固ではないのだけれど、私の内側と同じぐらい、しっかりと脈打っている。
 異次元だと思っていた世界は、もしかしたら、私自身のなかに遠い昔からあったかも知れない。

    「まだくらいうちに
     わたしの方向にへ鳥が来て
     わたしのかたちで啼くことを
     わたしは知っているので
     よる
     わたしはわたとしの分の砂を握り眠る」

 この詩人は独りで自分を抱きしめているのだろう。
 詩はこの詩人の唯一の支えであろうと思います。

宮尾節子「ニューイングランドの朝」詩と世界 [something blue]


ニューイングランドの朝  宮尾節子

「朝は露をおくところ*」
これはニューイングランドの
詩人のこしばだが……

泣いた瞳も
濡れたほっぺたにも
落ちた恋の
池にも

白い封筒に
切手が一枚貼られたように
ことばに ひと粒の
光る露玉を載せて

すべての泥濘
湿った露地や
乾いていない傷口に――

ニユーイングランドの朝が
発見されている
詩人の手によって――

    *エミリー・ディキンスンの詩のフレーズにより

             ※
 この詩は「ニューイングランドの朝」という言葉によって成り立っている詩であると思います。
 これ以外の言葉は不必要だと思える程この言葉だけで成り立っているのです。宮尾さんにとって「ニューイングランドの朝」は唯一無二のものであり、発見だったのです。これを宮尾さんがエミリー・
ディキンスンの死のなかで発見しました。と同時に、宮尾さんの内部にも、全く同じものを発見したのです。そのことが宮尾さんにとって、いかに確かなことであり、大切なことであるかは、二節、三節、
四節の言葉のひとつひとつから、感じ取れます。そのなかでも、特に「すべての泥濘 湿った露地や
 乾いていない傷口に―― あまねく 暁を届ける」にそれを感じます。

 そして、宮尾さんはエミリー゛ディキンスンに頭をたれながら、「ニューイングランドの朝」を書いています。
 世界各地に絶景というものがあり、多くの光景を心に焼き付けます。
 私もお金と時間が゛許すなら、こうした絶景を体験死に行きたい。でも、一方ではある日、ふと見あげた街が全く新しい光景として感じられることもあり、それはある意味では私にとって絶景であると
言えます。そして、ここに私熨しが生まれることもよくあります。恐らく、この詩人にとってニューインクセラントの朝はそうしたものであるのでしょう。

狩野貞子「空」優しい言葉」 [something blue]


空       狩野貞子

3.11
日本列島の空いっぱいに
たくさんの靴が 漂っている

泥にまみれたスニーカー 紅葉色のビンヒール
傷だらけのゴム長靴に 黒い革靴
真っ白いフェルトの靴は
掌二隠れてしまうほど小さくて

うねる高波に呑み込まれたとき
黒い濁った海から
空は全身で抱きかかえた

一緒に流した 汗の匂い 魚の匂い
膝を伸ばして 町を闊歩した
幸せなひととき

三年余りが過ぎたが
2,609足の靴がまだ見つからない

一足ずつ
すべての靴が
持ち主に届いたとき

青い空は
やっと高みをます

                         ※
 この詩人には童話作家が持っている包容力とユーモアのセンスがあると思います。
 それは初めの三行と終わりの二行に

  3;11
  日本列島の空いっぱいに
  たくさんの靴が 漂っている

  青い空は
  やっと高みをます

に到ルまで私によく感じられます。
 一つの言葉の選び方、つながり方、それは何とも優しくて、たっぷりしていて、ユーモラスなのです。
 この詩の内容は3.11の災禍であり、一人一人のいのちのことなのですが、それにもかかわらず、
私には「悲惨」であるとか「絶望」であるとかという言葉は少しも浮かんできません。
 でも、私の心は、私の知らないところで悲しんでいるようです。
 それはちょうど私が幼い頃、絵本をよんで初めて怖い世界を知った時のようです。そんなとき私は
一人でしたが、誰かが優しく見つめていることも感じました。
 私はこの詩に同じものを感じました。詩の神さまが舞いおりたのでしょう。
 そして、思わず空を見あげました。私の心のなかの空を。


峯澤典子「運ばれた花」朝早いカフェ [something blue]


運ばれた花   峯澤典子

カウンターの周りが薄く明るんだ
朝早いカフェで
向かいの花屋にランジス市場から着いたばかりの花が
並べられるのを見ていた
細いが よくしなう枝を持つはずの庭薔薇は
ほかの花よりも
器から大きくこぼれ
手折られた苦しみのかたちを
乱暴に 解いてくれる風を待っていた

本来のうねりをしずめ
自分の花影にもたれた枝は
数日前 公園のベンチに座っていた男を思わせた
男は服の色も判別できない木影で
寒いのだろうか 膝に何枚も新聞紙を広げ
そのうえに両肘をつき 額を支え
少し波打った白髪まじりの髪と痩せた首筋
湿った長い手足を
雨あがりの匂いにさらし
手折られた姿で 風を聞いていた

視線を合わせるのも そらすのも
こうした花に姿を重ねるのも、不遜、と知りながら
目はなぜ瞬時に識別するのか
底に満ちる孤独を
底が深ければ深いほど
見つめたあとは すべもなく離れるしかないというのに

すべての花が店頭に並べられ
花屋の扉がいったん閉まると
手折られた庭薔薇も男も 朝日に溶け
丸まった新聞紙だけが
風に運ばれていった

                     ※
 光とか色とか風というものは、本来それ自体は形もないし、言葉や絵の具などで描くには適していない。でも、もしかしたら、そこにしかないもの、そこでしか現れないものもあるのかも知れない。
 たとえば、それは能の世界だったり、イギリスの風景画家ターナーの世界のようなものだ。
 私はこの詩を読んでいると、そうした世界を同じようなものを感じる。
 たとえば一節目の終わりの二行

  手折られた苦しみのかたちを
  乱暴に 解いてくれる風を待っていた

 にそれを感じる。そしてねその内実は次の節に注意深く語られている。それを読んでいくといつの間にか、私も能やターナーの絵にはいっていくような気持ちになる。
 しかし、その世界は決して幸せなものでない。

  底に満ちる孤独を
  底が深ければ深いほど
  見つめたあとは すべもなく離れるしかない

 しかも、不思議なのは、こうしたことが日常のカフェで起きているということである。そこに私は詩の
現代性を強く感じる。


  

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