So-net無料ブログ作成
  • ブログをはじめる
  • ログイン

志田道子「忘れていたもの」我々はどこから来てどこへ [something blue]

忘れていたもの   志田道子

電車が鉄橋にさしかかると
明るい銀鼠色が
目の前にいっぱい広がった

誰も未だ
春のことなど思い出してもいないうちに
鋭い太刀が斬りさいていた
その真一文字の切口にだけ
日の光が射し込んで
水平線がどこまでも続いていた

空も
河口も
薄雲鼠色
河の真中を
扇子をだんだんと広げて行くように
白波の航跡を従えて
貨物船が音もなく
海に出て行こうとしていた

男は吊革にぶら下がって
片手でコートの胸の釦を確かめ
目を細める
ずいぶん長い間
使うことのなかった
肩甲骨の間の
翼の根っこが疼く
こんな静かな
昼下がりには

                        ※

 「我々はどこから来て、どこへ行くのか」 
 この言葉を私はいつも忘れているようです。でも、突然思い出すこともあります。それはなんの前ぶれもなく寝私のなかに立ち上がってきます。
 ひとりで海を眺めているときだつたり、あるいは大勢の人に交じって街を歩いているとき、「我々はどこから来て、どこへ行くのか」と思うのかも知れません。
 この詩を読んではるかに遠い世界にさそわれる感じがしました。
 突然、目に飛び込んできた青い海、それは「目の前いっぱいに広がった」「鋭い太刀が斬り裂いていた」水平線がどこまでも続いている。
 たぶんこの詩人はひとりで自分の言葉を探していたに違いない。(それは私と同じではないかと思います)
 「ずいぶん長い間 使うことのなかった 肩甲骨の間の 翼の根っこが疼く」「我々はどこから来て
 どこへ行くのか」決して生と死のことたけではなく、私と鳥、私と魚たちとのことでもあるのでしょう。
 
 

岡島弘子「みえてくる」三百六十度 [something blue]


みえてくる    岡島弘子

山梨の山脈野坂をこえて
六十歳をこえて
今 私は三百六十度ひらけたところに出てしまった
スター・オブ・ホノルルの甲板に立つと
南国のいちまいの空と いちまいの大海原がひろがる
十二時の方向にクジラがいると おしえられて
目をこらす
周囲でどっと蕨市があがるか何もみつからず
なおも目をみひらく
なおも なおも 頭が海と同化するまで 青にそまるまで
みつめていると

海と空をおしわけて
とつじょ あがる ふんすい
じゃなくて
いのちのいとなみがかたちを得たような
あれが潮吹き
なおもみつめていると 山が隆起する
こえてきたはずの小仏峠がハワイの海にあらわれた
と思ったがクジラのせなかだった

それはすぐ消え 尻尾がたかくあがる
御坂峠のように けわしく切れ込んだ稜線
が それはゆっくりうごいて
海原に太古の文字をえがいた
よみとれないうちに 消える

幼い日 蚊帳のなかでおよいだこともあった
ホノルルの海の群青色に波だつた蚊帳のなか

思い出にせなかを 直立させられて
私はなおもハワイの海を凝視する
クジラが八頭 イルカが九頭
西山連山のようにつらなり そして
尻尾があらわれ
太古の文字をえがいて消えた そのあいも

なおも目をこらす なおもなおも目をこらす
眼が海と同化するまで 海にそまるまで
目をこらす

海のひかりの果てまで
空のかがやきの果てまで
そのさきまで
むこうがわがみえてくるまて

                         ※

 初めの三行「山梨の山脈の坂をこえて 六十歳をこえて 今 私は三百六十度ひらけたところに出てしまった」はどんな意味か、この詩を更に読んでいくと深く深くわかります。
 「意味」が「深くわかるというのは少し変な言い方ですが、この場合は他に言いようがありません。
 幼い頃の「南国のいちまいの空」と今、目の前にひろがる「いちまいの大海原」が重なり合い、溶け合っていきます。
 大海原を見つめていると、波が山になったり、峠になったかと思うと山々が鯨になったり、太古の文字になったりします。これが三百六十度ひらけたところなのです。
 風景や場所は時を隔てて、私たちをつなげているようです。
 「海のひかりの果て」「そらのかがやく果て」その先に何があるのか、わかりませんか、私たちはそこにむかっているような気がしました。
 

山田玲子「雨にぬれた木」でも思うのです [something blue]

雨にぬれた木   山田玲子

五十年まえ
わたしは堺市に住んでいました
二階の部屋の窓をあけると少し向こうに
石油コンビナートの建物がみえたのです
もっと前
二歳年うえの夫が子どもの頃に
そこは白砂青松の浜辺で
子どもたちは
家から裸足で泳ぎにいったということです
賑わっていた海岸
もうそのわが家はありません
家族のなかで
生きているのは わたしひとり

でも思うのです
横浜の中ほどに今住んで
雨にぬれた一本の木を眺めています
そのうちわたしもかならずいなくなる
でもこの木はなくならないでしょう
わたしより長生きするでしょう
桜も開き花見の人も集うでしょう
ふとわたし思います
わたしもやはり幸せなのだと

                      ※

 この詩はひと言でいうならば意味もとりやすく単純な詩です。でも、私はこの詩を宝物のように大切に大切にしまって置きたいという感じがします。お終いの節
  
でも思うのです
  横浜の中ほどに今住んで
  雨にぬれた一本の木を眺めています
  そのうちわたしもかならずいなくなる
  でもこの木はなくならないでしょう
  わたしより長生きするでしょう
  桜も開き花見の人も集うでしょう
  ふとわたし思います
  わたしもやはり幸せなのだと

 を読むと何とも心が軽くなります。この節の前は一行開いていて、それが〈でも思うのです〉と始まります。私はここの処画とても好きです。
 この明けた空白の一行に時の流れをありありと感じます。だからこそ、〈でも〉なのです。
 そして最後に〈ふとわたし思います わたしもやはり幸せなのだと〉これはとても単純デ意味はよくわかります。たぶん私たちの幸せとはこういうことなのだと思います。



鷲谷みどり「フラミンゴ」言葉の旅 [something blue]


フラミンゴ    鷲谷みどり

フラミンゴたちは眠りのあいだ
木のように
夜のしずくを吸い上げている

この公園の
いきものたちは毎夜
四角い柵に自分の眠りを立てかけて
四角い夢を見るけれど
自分のかたちの上手な手放し方を
よく知らない私は
まだ うまく眠れない

彼らの眠りを一体何が支えているのか
植物のような関節で
ここにこうして立ち続けるために
一体どれほどの夜のしがいが そこに
井戸のように落とし込まれ続けなければならなかったのか
その疑問に答えようとして
なぜか私が足をもつれさせてしまう

この箱のなかの
うす赤いいのちの群れの中に ひとつだけ
張りぼていきものが立っているような
そんな不思議な間違いが この四角い柵に
眠っているような今夜
私は なんだか何度も
鳥たちの顔を覗き込んでしまう

鳥たちの夜の色をした目を覗き込んでから
私の夢のなかに
その紙のいのちの質感が消えない
かさこそとした音の
むせかえる夜の匂いのなかで
紙のいきものは 一体
どんな重心で
みずからのいのちをこらえているのか
息をつくたび ほどけていこうとする
その桃色のいのちの首とで今
とうやって夜の色をせき止めているのか
奥行きのない 淺い水の夢のなかで
あらゆるものから目から覚ましていても
あるはずのない私の体の底の井戸の
くらい水のたてる音からは
ついに起き上がることのできないまま
水辺の鳥たちは 夜明けを前に
自分の体の
上手な折り目を探している


                     ※

 とても不思議な感じのする詩です。
 私は一度もこれほど鳥を見つめたこともないし、鳥の間近にいて、遂に鳥と一体化してしまうような
ことは、全く未経験なので、何が書いてあるのかよくわからないのですが、それにもかかわらず、先へ先へと読んでしまいます。
 なぜそうなのかといえば、もしかしたら、この詩の言葉が持っている独特の力のせいかも知れません。
 言葉と言葉として生まれる私たちの内側にも外側にも同時にある言葉、その言葉が生まれる前になにかしらあるもの、殆ど物質のようなもの(人によってはこれを「言霊」などといったりしますが私はこの言い方はあまり好きではありません)この詩人がめざしているのは、この言葉の基ではないでしょうか。
 この言葉の基があるのは私たちを生み育てた場所かも知れません。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。

×

この広告は180日以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。