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伊藤啓子「おとこの家」家というもの [something blue]

おとこの家   伊藤啓子


あの家には玄関がなかった
遊びにおいでと言われても
どこから入ればいいのかわからなかった
茶色い犬はおとなしく
くったり眠っていた
お祭りの日
あの家で
ひっきりなしに動く人影を見た
どこから出入りするのだろうと思ったが
いつの間にか笑い声がさざめいていた
一度だけ
台所の出窓が開いていたことがある
バラの花びらを詰めたビンと
サボテン鉢植え
腹の足しにならぬものばかりだった
遊びにおいでと言われても
花びらを口に含み
サボテンの棘で指をくすぐるような
女のひとが出てきたとしたら
とても気が合いそうになかった


              ※
 私は十八歳のとき、東京に出てきて以来、一軒家に住んだことはなく、アパートかマンション暮らしであり、それは私の住まいということはできるけれども、私の家ではない。
 その違いはとても面白く、家を舞台とした映画やテレビのホームドラマなどに見とれたりすることもある。
 そういう私にとって、この詩は「おとことおんな」の詩というより、「家」という詩という感じがします。それと、この詩全体が何かひとりごとのようなリズムがして、そのことも私の家と関わり合いがあるような気がします。私が家について考えたり、話したりしようとすると、とこかしら、ひとりごとのような気がするからです。
 もしかしたら、家というのは現代の人々にとって、そういうものかもしれません。たとえ、その人が今一軒の家に住んでいなくても。つまり、家はそれ程、かっては濃密な存在であり、物語性をもっていたということだと思います。
 こうしたことが、この詩の余白にあるような気がします。それはたとえば<犬がくったり眠っていた>ことだったり、<台所にバラの花びらを詰めたビン>が見えるということ、これらの後に余白がひろがっているような気がします。
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池谷敦子「夜明けのサヨナラ」一回限り [something blue]

夜明けのサヨナラ   池谷敦子


どうしても こころは海に向かってしまう
どうしてか 岸辺に向かってしまう

ふわりとからだを放り投げて
草の底から
水面の下から
見上げてみたいのだ

出会ってしまったひとだから だいじにしてきた
背負ってしまった重荷だから だいじにしてきた

そう? 自分をだいじにしてきたんじゃなかったの?

ぜんぶ受け容れてくれたのが あなた
今は薄い骨だけになっている あなたなのだ

酸素マスクをずらしてあげると
サ・ヨ・ナ・ラ と
僅かな口の動きだけで伝えた

サヨナラ
しあわせな魚族だった頃の
水の感触が
もう まもなく
あなたを くるむ


             ※
 この詩について、はじめに思うことは、この詩を高齢者だけではなく、多くの若い人たちに読んでもらいたいということです。
 このような詩を書くことは、年をとり、それなりの人生を送ってからではないと、できないと思います。  
 しかし、これを読み、味わうことは別です。
 若い人も必ず、この詩がよくわかると思います。よい詩には必ずそういった年齢を超える
力があります。
 私がこの詩を読んで感じたことは、人というのは、何とやさしく、何と無邪気なものかということですが、それよりも言葉にならない、不思議さ、不思議であるが故に何とも素敵な感じです。この不思議さは、この詩を読んで私は初めて体験しました。いや、もしかしたら、私の中にあったかも知れない。それをこの詩が想記させてくれたというべきなのです。
 この人の不思議な素敵さは、きっと誰の中にもあるのだと思います。それに、いつか出会う、それは一度限りの出会いかも知れません。
 できたら、この詩を何度か、くり返して読んで下さい。そして、最終連に続けて、第一連、第二連と続けて読んでみて下さい。そうすると、私が書いた「不思議な素敵さ」がよくわかるのではないかと思います。詩はぐるぐると回る輪舞のようなところがあります。
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岡田喜代子「潮は」今も潮はのぼってくるのだろうか? [something blue]

潮は     岡田喜代子

朝ごとに ひたひたと
潮は河口から のぼってくるのだった

くちなしの花が しおれかけ
つややかな葉に少しばかり無残なかたちで
うなだれている
短い梅雨が明けようとする時に

また 水底のような渋谷の大学路を
泳ぐように行く途中
たった今 自分の暗い物語から覚めたばかりだ
という若者の目と出会った
初秋の朝にも

ただ潮が
その河をのぼつてくるのだった

誰ひとり 傷つけずに

            ※
 私はこの詩のなかで最も感動し、心にぴったりと残っているのは最後の<誰ひとり 傷つけずに>です。私もこういってみたかった。でも、同じような言葉で詩を書くことはできなかった。
 そういった思いがずっと長くあって、そしてこの詩に出会ったから、強くそう感じるのだろう。
 ところで、この詩の枠がであり、モチーフともいえる「潮」はいつどこからやってきたのだろうか?<朝ごとに ひたひたと 潮は河口から のぼつてくるのだった>。恐らく潮はずっと昔から、もしかしたら太古の時代からのぼつてくるのかも知れない。しかし、その水は今でも<短い梅雨が明けようとする時に>、そして<たった今 自分の暗い物語から覚めたばかりだ という若者の目と出会った 初秋の朝にも>のぼってくる。
 そして、これは私の想像ではあるが、未来にも、潮はのぼってくるのだろう。この潮は私たち人間の力を越えているかのようであるが。
 けれども、それは<誰ひとり 傷つけずに>のぼってくる。これが作者の願いであり、欲望なのだと思う。
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間島康子「ある十月の日の雨の降る」詩の場所 [something blue]

ある十月の日の雨の降る     間島康子


うす汚れた地下鉄のホームに
うら哀しいギターのバッハが流れる
黒いロングコートの男が長い髪をして
多分日銭稼ぎのために弾いているバッハ
昼下がりの雨の降りはじめた十月の日は
すれ違う人から何も奪わず
奪われるものもない
静かな気持ちが似合っていて
ベンチに腰をおろして電車を待った

記憶へ傾いていく苛立ちもなく
先へ先へとのけぞっていく重い力も湧かず
マンハッタンの真ん中の人のまばらな地下で
ヨハン・セバスチャン・バッハを聴いていた
疲労ではない 幸福というのでもない
ひとり ひとり くねくねと生きてきた
細い道のりのやわらかい穴のような時間
にそっと身を置いていた

アーチ形の闇の向こうから風が吹いてくる
竈に吹き送る息のような体温の束ねられた
風の波を先立てて電車が滑りこむ
一体どこへ行こうというのだろうか
あの人 その人 この人 このわたくし
それぞれにつないだ場所や行方や
あるもの無いものへの見えない契りに
背中を押され吸いこまれていく

あ バッハが
無造作に閉じられた電車のドアにはさまって
つやめいた声を響かせ
そして途切れた
ゴトン
とためらいの音がひとつ
電車はゆっくりと動き出した
わたくしをまかせていく
闇に光るレールの上を レールの先へ

            ※
 現代のような状況で詩を書いたり読んだりすると、やはりどうしても日常的な世界や自分の内部へと気持ちがいってしまいそうです。
 この詩はそうしたなかで、私が出会った「共感」できる詩です。日常的といってもただ単に
目の前にあることを書くだけでは決して詩はひとつの詩にならないと思います。

 この詩は初め何気なく、いかにも日常のひとこまのように始まっていきます。けれども、この詩のなかで、じっと佇んでいるある存在、ひとりの人間が秘かに感じられます。それは特に
第二蓮目の<疲労ではない 幸福というのでもない ひと ひとり くねくねと生きてきた 細い道のりのやわらかい穴のような時間 にそっと身を置いていた>という表現に感じられます。
 そして、この詩は読んでから現代という状況を再び考えてみると、私にはそれが少し違ったように感じられます。ほんの少しかもしれないけれども、この変化はとても大切なことだと思います。最後の連はとても格好がいいというか、見事です。まるで、懐かしい映画のシーンのようです。
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