So-net無料ブログ作成
  • ブログをはじめる
  • ログイン

歌手       [ふしぎなクミコ]

歌手     村岡久美子          

 非常出口の半透明のガラス越しに「歌手」の影が揺れているのが見える。口は大きく開かれ、吸い込んだ空気で肺はいっぱいになっているのだろう。いつもの発声練習の時間なのだ。彼女は毎日午後、この時間になると、働いている事務所をそっと抜け出して、同じ階の裏手にある金属製の非常階段の踊り場で歌う。エアコンの唸りと何分かおきに始動する巨大な送風機がそのたびに引き起こす爆発音が、機械室のあるコンクリートの狭い中庭からふきあげてくる。目の下の有楽町駅からひんぱんに出入りをくり返す電車の振動とざわめきが伝わってくる。その真っただ中で彼女は歌う。これらの騒音は伴奏をつとめるオーケストラなのだ。
 
 彼女の声はとても美しい。声量のある暖かみのあるその声は、空の急な階段を嬉々として昇り降りする。通りがかりにふと聞こえてくるメロディ。いつものことなのに、ひどく心を揺さぶられて立ち止まり、耳を傾ける。奇妙な胸の痛み。まるでコンサートに遅れてついた時のように。ホールを埋めていた上気した観衆の姿はなく、ひっそりした広すぎる空間に呆然と立ちつくし、閉ざされた防音の二重扉の向こうの、緊迫したもっとも厳粛な瞬間を思い描く。そのとき、ふいに奇跡のように流れてくるメロディ。絶望的な貪欲さでそれを聞く。この世でもっとも美しい幻想的な音楽。
 
 ここは彼女の居場所ではない。しかし、彼女が舞台に立つのはもう遠い先のことではない。まもなく彼女の晴れの舞台が見られるだろう。誰もがそう思っていた。ところが、いつの間にか彼女のきれいな卵型の顔から輝きが消えてしまっていた。肌が張りを失い、奇妙にひきつっている。それに気がついた同僚たちは驚き戸惑った。時が経ってしまったのだ。時の細かな粒子が美しい顔の上にひそかにふりそそいだのだ。彼女が舞台に立つことはないだろう、この職場を離れることはないだろう、という二つの見通しが同僚たちを失望させ困惑させた。それ以来、気づまりと沈黙とが彼女をとり巻いている。
 
 けれども「歌手」の日課には何の変化も現れなかった。午後いつもの時間になると、そっと席を離れ非常階段の踊り場に立ち、虚空を前にして歌う。幸福のかぎり、喜びのかぎりをこめて歌い、最後に胸に右手をあてて、深々とお辞儀をして観衆の熱狂的な拍手に答え、それからオーケストラに感謝の気持ちを示す。それが終わると、映画会社の労働組合の狭くて薄暗い事務所にもどる。いつもごった返していて、ときには墨で黒々とスローガンが書かれたばかりの横断幕がはみ出してきて、廊下の向こうまで突き抜けていき、エレベーターの前まで届くことがある。彼女は窓から遠い、薄暗い片隅にある自分の席にもどり、歌の練習で紅潮し、喜びで輝いている顔をふせて、つつましく勤勉な事務員にもどる。彼女はこうして影に融けこみ、影そのものになる。

                                                       
 
 
 

                               
 
    





 

HOUR ARITHMETIC Kumiko Muraoka

HOUR ARITHMETIC Kumiko Muraoka



Today is already the eighth day of spring, and this is the twenty-seventh spring. I am beginning to
understand that times and that things all the methods for measuring time: cutting notches on the
flow of time, making bouqets of the seconds, putting them in rows on paper. Sometimes time seems to be a ribbon, sometimes a point, sometimes minusucule thorns.

The length of time is the thing that is the most difficult to understand. One day it's too short, or too long, endless. That's why there are men who devote their life to keeping watch over the lentgh of time, we call them “scientists. ” But scientists have never understood the length of
the time in which they are living, and they disappear suddenly from the earth.




On the Yurakucho viaduct pass circle-line trains, under the viaduct, a silent cobbler-shoe-shiner
is seated on a small wodden stool. He is there all winter and summer, squeezed into clothes that he puts on over each other. On him he is carrying all the clothing that he possesses, but he's always numb with cold. It's because of this wind passing under the viaduct. which is different than
that blowing from the other side, several feet from there.

The hands of the shoe-shiner are dried out, blackened, deformed,the pupils of his eyes are constantly dilated. In the obuscuruty, he can make out the grey luster of the nails and pound them
into the sole with dexterity; he has't ever lost a single one, or struct it sideways, or missed. The
eyes of the cobbler are extreamly sensitive to miniscule objects: needles, threads, nails, leather
remants……But his eyes can't forcus on larger objects.

There are now two mutes and a hunchback leaning his hump against the cement wall. When there
are'nt any customers, the cobblers' conference is held:they chat, gossip and laugh with their heads thrown back, their gestures more and more lively more and more frentic, strange. You can't hear their conversation, because of the trains passing ceaselsely over their heads.

They have come to the conclusion that the sun is a kind of crawling animal. It's is never far from where they are, but it never comes to see them. They find that incoprehensible. One of them,
hoever, has found an explanation: “Meybe it has no shoes. ” They burst out laughing as a sign of triumph. The triumph of intelligence.
But the eyes of the cobbler don't see the length of time.

クミコの小説「時の算術」 [ふしぎなクミコ]

「時の算術」        村岡久美子


 今日は、すでに春の八日目、二十七回目の春。時は過ぎてゆくもので、時が過ぎてゆくにつれて、いろいろなことが起こるということがわかってくる。時を計るあらゆる手段を試してみる。流れる時に刻みをつけたり、秒を束ねたり、紙の上に並べてみたりする。すると、時がリボンみたいに見えてくる。あるときはただの点みたいに。またあるときは小さな棘みたいに。
 時の長さは、わかりにくいもの。一日はあまりに短く、あまりに長く、終わることがない。だから時の長さを観察することに一生を捧げる人びとがいる。彼らは「学者」と呼ばれている。しかし学者は、自分もやはりその中で生きている時の長さをけっして理解することはない。そして彼らは、突然この地上から消え去ってしまう。

   *

 有楽町の高架を環状線の電車が走る。高架の下では口のきけない靴磨きが木の椅子に腰かけている。重ね着した服に首を埋めて、冬も夏もずっとそこにいる。ありったけの服を着込んで、それでも彼はいつも寒がっているように見える。高架の下をとおり抜けていく風のせいだ。何メートルか先の向うのほうで吹いている風とはちがう。
 靴磨きの手は干からびて黒ずみ、いびつになっている。瞳孔は開いたままになっている。薄暗がりの中でかすかに光る灰色の小さな釘を見分け、靴底に打ち込んでいく。見落としたり、斜めに打ったり、打ち損じたりすることはけっしてない。靴屋の眼は、針や糸や釘など、ごく小さなものには極度に敏感なのだ。それらより大きなものには焦点を合わせることができないのだ。
 いま靴屋は、二人の口のきけない男と、セメントの壁に背中の瘤をもたれさせている男が一人。客がとぎれると、彼らの会議がはじまる。議論し、冗談を言い合い、頭をのけぞらせて笑う。やりとりが熱をおびてくると、彼らの仕草はますます大仰で奇妙なものになっていく。その会話を聞きとることはできない。絶え間なく頭上を走り抜けていく電車のせいだ。
 彼らは、太陽は爬虫類の一種であるとの結論に達した。太陽は、彼らのいるところからけっして遠いところにいるわけではない。けれども彼らにはけっして会いに来ない。そこがどうにもわからなかったが、ひとりがその理由に思いあたった。
「あいつはたぶん、靴を持ってないんだ」
 この明快な分析に彼らはわっと笑う。知性の勝利。


 






                        

 

一青窈(ひととよ)さんのハナミズキ [出口なしではないよ]

jp.youtube.com/watch?v=jUGN2vMj3bY&hl=ja

ひととよさんはハーフなのかな。 なにか迫力がある。

これくらい迫力があれば、原爆の後遺症の心の傷で、

失った60年を取り戻せるエネルギーをもてるかも知りない。

みんなのうたもすばらしい、はずかしい、うれしい。

jp.youtube.com/v/ZB_RuIw_TPs&hl=ja

春になったのでモーツアルトを [出口なしではないよ]

jp.youtube.com/watch?v=jUGN2vMj3bY&hl=ja

 あのアインシュタインですら、「死ぬのは怖くないけれど、モーツアルトを聴けなくなるのが淋しい。」
 といわせたのはなぜだろう。

 久しぶりで「交響曲41 N.551」 を聴いてみた。昔はカール・ベームがすきだったけれど、この「ジュピターはイギリス国教会の室内楽のオーケストラでジェフリー・テイトというひとの指揮だつた。

 なかなかいいと思った。どうして大江健三郎の息子さんも谷川俊太郎もだれもかれもモーツアルトが好きなんだろう。だれが好きでもわたしも好きだと思うんだろう。

 Youtube は音はいまいちだけれど、それでもすばらしいと思う。

 モーツアルトの音楽を聴くと、わたしは愛されていると感じる。もう神さまは信じなくなったけれど、
だから、神さまに愛されるようなことはないけれど、自分が愛されていると感じるから、モーツアルトを愛するのではないだろうか?

 年をとっても、死ぬまで愛されているなんて何て幸せなんだろうと思う。そういうことはありえないと思っていたのに、そう感じることはやはりすばらしい。

「ふるさと」新川和江  面白いところ [something blue]



 
 
 
 

この詩の面白いところは

 「そうでしょ  おとうさん」とか
 「そうでしょ  おかあさん」とかいうとき

 まるで、おとうさんやおかあさんが ふるさとであるかのようにきこえてくるところです。

 考えてみると、自分のうまれたところですから、特におかあさんは そこから 自分がうまれたんですか
 ら、その通りなのですよね

「Kの土地」小柳玲子  ぜんまい [something blue]

Kの土地     小柳玲子


地下鉄のあとは何に乗ったろう
汽車は三つめで降りた
すすき野の中でバスに乗った
時計のぜんまいのようなものが
たえず空気の中から生まれ
バスの床に落ちていった
それは暗がりにすぐ見えなくなった


それからバスを降りた
山の中腹にKの家が見えていた
それは何のはずみか急になくなり
突然また現れるのだった
夕焼けを吸って壁も納屋も暗かった
そのあたり ぜんまいのようなものが
生まれては消えていた


K お元気ですか
久しくおめにかかりませんでしたね
あなたは——何故だろう とても幼くなった
それは双六ですか あなたが遊んでいるのは
めくらねずみや るみこちゃんの靴がありますね
みんなとても小さい
小さい
わたしには見えません
あなたの声ばかりがきこえる K


L どうして来たの
こんな遠い土地まで
頼りなく不審気にKは訊いた
「お正月だから」
私は そう答えた 何故か消え入りたかった
初夢にしても——さらにとりとめない声でKは言った
——ここは滅多に来る人はいないのだけど
うつくしい空気の中から
Kはいくつもいくつもぜんまいを拾った
L きみは駄目になっていくみたい
ほら こんなに壊れてしまって


夜あけ 霧
汽車は三つめで降りるのだった
バスは幾つめだったろう
すすき野で 券売機の前で
ぜんまいのようなものが
たえず 生まれ
帰っていく駅の名前を


つかのま 思い出せない時
K あなたは誰か




   ※   ※    ※



 何かしら発光体のようなものに書かれた物語。

 Kの土地を訪ねる<私>。

 しかし、殆ど現実味が感じられない。

 いろいろな物(ぜんまいやKの家など) が現れたり、消えたりする。

 淡い光芒とともに、恐らく、それは書かれているのが発光体の上だから。

 発光体というのは詩人の意識なのだろう。

 言葉は呼吸と同じようなリズムで自然に語られるので、内容が物語のような

 ものであるにもかかわらず、香りのようなリアリティがあります。

 そして、私は知らず知らずのうちに、私自身の失われた時を探しているような

 感じがします。

 <時計のぜんまい>とは詩人の失われた時間であり、私自身の失われた時間でもあります。

 この詩のなかで、<ぜんまい>があらわれないのは、三連目です。そこだけが、リアルであるから、

 失われる時間が現れることができないからではないかと思われます。

 幼い時の時はそれ程までに充実しているものなのかしら?

 そうなると、最後の<K あなたは誰か?>のKとはもうひとりの自分、もうひとりの私です。

「夏茱萸」尾崎与里子 〔私〕と〔老女〕の距離 [something blue]

夏茱萸    尾崎与里子


かぞえていたのは

梅雨明けの軒下の雫と

熟しはじめた庭隅のグミ

そのグミの明るさ

私は〔老女〕という詩を書こうとしていた

眼を閉じるとひかりの記憶に包まれて

すぐに消え去ってしまう いま と ここ

時間のなかで自画像が捩れてうすく笑う

  

初夏の明るさに

この世のものではないものが

この世のものをひときわあざやかにしている

母性や執着の残片があたりに漂って

耳もうなじも

聞き残したものをきこうとしてなにかもどかしい

それはふしぎな情欲のようで

手も足も胸も背中も

そのままのひとつひとつを

もういちど質朴な歯や肌で確かめたいと思う

刈り取られていく夏草の強い香

ひかりの記憶

たわわにかがやく夏グミの

葉の銀色や茎の棘

〔老女〕はきらきらした明るさを歩いていて


   ※     ※      ※


 この作品は私には俳句の世界と通じ合うものが感じられます。
 
 私は俳句や和歌については殆ど知りません。それでも、タイトルの「夏茱萸」にはやはり俳句を強く
連想します。

 またそればかりではなく、「梅雨明け」「雫」「庭隅」という自然に対する細やかな気づかいが何よりも
俳句や和歌の世界を強く感じます。

 日本人の自然に対する「気づかい」は独特のものではないかしらと以前から思っていましたが、この作品を読んで再確認しました。

 それは自然に対する観察であり、感情移入であり、そして擬人化などがひとつになったものではないかと思います。

 ひとつにするのは日本語の力であり、やや大げさにいうと日本の文化の源であるといってもいいかも知れません。

 私はこの詩にそういうものを感じます。それをなんとも鮮やかに表現しています。

 <私は〔老女〕という詩を書こうととしていた>

 しかし、この詩のなかで〔私〕と〔老女〕との距離はとても現代的な感じがしました。
 それは決して短歌や俳句の世界では感じられないものでした。この詩はその部分が光っているのだと
 思いました。

「投光」関中子   町に住む [something blue]

投光    関中子



町の奥に住んでいる
町の東側に向かいずんずんずんずん歩くとわたしの住処につく
そこはかたつむり通りの向かい側になる
柿の木森の東隣ですすき原の西
くぬぎトンネルをぬけたところ
くぬぎトンネルに入る前に夜になると
西に沈んだはずの太陽がそっと隠れたつもりのような
太陽の幼子団地と名づけた建物群が散らばる
北の大地は太陽の幼子団地に仄かに照らされて地上に浮かぶ
そこで輝く変身山は一番迫力がある
さらに人が乗った噴火流が北に西に南へと見え隠れる
隠すものと隠されるものと
沈黙するものと声高に話すものとどちらも素敵に見える
時々 妙にもの哀しく見える
輝かない窓がいくつかあり
これがあたりまえならその言葉を人目に触れさせまい
その窓の奥のできごとのひとつふたつ
窓の哀しみ わたしの胸の淋しさ


わたしは別れた双子の兄弟姉妹などいないのだし
わたしの窓はあの幼子団地にあるはずもない
わたしは町の奥に住んでいる
町の東側に向かいずんずんずんずん歩くと住処につく
そこはかたつむり通りの向かい側になる
柿の木森の東隣ですすき原の西
くぬぎトンネルをぬけたところ
三年前までは葛の葉橋を渡ったが
それは熊笹砦の思い出話になった
空に向かって葛の花びらを投げた
まっすぐに投げた
でもたちまち勢いを失ってははらはらと熊笹砦に流れた
熊笹砦から西南を望むと町で誰かがまっすぐに
空に投光するのが毎晩見える
雨の日も 風の日も 曇り空の日も
まっすぐ まっすぐ見える


わたしの夢に形があるとしたらこんなふうに
空に向かって行きたいのでは?




     ※     ※     ※


 この作品は全体としてとても観念的であり、思考的であると思います。

 でも、私には思考しているひとの体や息づかいが感じられたりもします。それがこの詩の不思議さだと思います。

 はじめの二行<町の奥に住んでいる 町の東側に向かいずんずんずんずん歩くとわたしの住処につく>が特に私には印象的でこの二行によって何かが始まる感じがします。

 何が始まるかといえば、町のなかで何かが起きているようで、それに立ち会うような感じです。

 そして、その起きていることが幻想と観念(思索)が融け合っているような———私はこの二つがうまく
融合しているようには感じ取れないのですが———ことが起きている。

 こうしたことが必ずしも、うまく表現されているとは思えないのですが、それにもかかわらず、私は感動するし、元気づけられます。

 つまり、町のなかでひとりの人間が哀しかろうが、淋しかろうが、一生懸命生きている、このことが伝わってくるからです。

 内容的にはそういうことが書かれていないにもかかわらず、そこで生きているひとの息づかいや体の
動きが感じられる、それがこの詩の不思議さであり、新らしさであると思います。

 こうしたことのすべてを支えているのは<わたしは町の奥に住んでいる 町の東側に向かいずんずんずんずん歩くと住処につく>この二行です。

 町というのは、幻想と思索の産物かも知れません。

「てのひら」伊藤悠子  二つの視線 [something blue]

てのひら   伊藤悠子


四階の窓辺から

誰もいないバス停を見つめている

まっすぐ落ちていく蝙蝠のように見つめている

バス停も

草も

あれほど遊んだ草たちも

もはや昇っていくように

わたしより上だ

わたしが落ちていくので

なにもかも上になって遠ざかる

懸命に思い出す

てのひらだけを

きっとよいものだから、死は一番最後にとって置きなさいと

幼子をあやすように言った人の

てのひらを

誰もいないバス停に見つめている




 


 わずか16行の作品で、決して長いのではないのだけれども、私は久しぶりにスケールの大きな世界
をこの詩に感じました。

しかも、同じく胸がきゅんとなるようなリアリティも感じました。

 この詩には、恐らく、二つの視線があります。その一つは<四階の窓辺から 誰もいないバス停を見つめている>ともう一つは<てのひらを 誰もいないバス停に見つめている>のこの二つから生まれています。

 そして、この二つの視線は大変精妙に、というか「奇蹟」のように融け合っています。

 この融合をどう感じるかによって、最後の二行は<てのひらを 誰もいないバス停に見つめている>大変ちがったものになるのではないかと思います。

 大きなスケール、大きな深さを私はこの詩に感じます。

 ここまで、書いて、私はリルケの「秋」という詩を思い出しました。






「けれども ただひとり この落下を

限りなくやさしく その両手に支えている者がある」 富士川英雄訳



 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。

×

この広告は180日以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。