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「Trails−踏みあと」 江口節  記憶と伝統 [something blue]

   Trails-踏みあと             江口 節

  

鹿の鳴く声を聞いた
山の稜線が うっすらと浮かぶ頃
フィーヨウ フィーヨウ フィーヨウ
と、わたしは聞き
あなたは カァーンだと言う
初めて聞いたけだものの声を
鹿、だと
知っていたわけではなかったが
確信のように
やってきた最初の一声は
高く延びて ひきしぼっていく
それは わたしの
時間の弓ではない
皮膚や髪の毛、背骨、はらわたにまで
きざみこまれたできごとの
記憶の弓
ではなかったか
おびただしく生きて、おびただしく果てたものたちの
Trailsをひきしぼり
まだ明けやらぬ山襞に
何本も何本も放たれていく
存在の矢、鹿の声は
近づいたり 離れたり
かならず 三回ずつ鳴いて
夜がすっかり明ける頃 ぷっつりと途絶えた
わたしは
ありありと知っていたのだ
わたしの気づく前から知っていることを
もう一度知る、
鹿の鳴き声を聞く、ということを



 
 
 この詩の心地よさは音楽を聴くときの心地よさに似ています。つまり、感覚や心が一定の律動を得て
自然にひろがっていくということです。そして、そのなかで、いくつかの変調があり、出発点からいつのまにか違った世界へと読む人を誘います。はじめ、山で鹿の声を聴いた、最後には<わたし>の内側で鳴鹿の声を聴いた、そして未來においても<わたし>のなかで鳴くのを聴くであろう。
 記憶というのは時間のように一直線にたどれません。つまり記憶は森羅万象が影響しあいながら生きていく最も基本的な力かも知れません。鹿の声ということについていえば、

  奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞くときぞ秋は悲しき

を思い出すのは私だけではないでしょう。
 意識的であるにしろ、無意識的であるにしろ、この作品の背後には、この平安時代の和歌があると思われます。そう考えると、そもそも鹿の記憶はどこからこの作者に訪れたのでしょうか、と思います。
 

「名」  渡辺みえこ    記憶と伝統 [something blue]

    名           渡辺みえこ


夏の終わり
照りつける西陽を背に
野良から上がった母は
首に巻いた手ぬぐいで
汗を拭いながら
決まって
ちゃぶ台の前の私の背に被さって
私の腕に母の腕を巻き付けた

母と私の手に沿って
魔法のように筆が動き
皺だらけの新聞紙に
美しい黒い線が描かれていった
母の心臓の音が
私の背中に伝わった
それは私に
文字というものの
激しい鼓動を伝える音だった

はつひので
にほん
さくら
ちち
はは

雪に降り込められた
年の暮れ
四十の母は
籠の手を休め
土間から上がってきた

母は私の頭の上に被さり
埃だらけの手で
私の名を書いて見せた
その手は細かく震えていた
それは慣れない
力仕事のためだったか

筆名に慣れた私は
本名をほとんど書かなくなったが
その名の文字は
書くたびに
私を震わせる
私の手は
私の名指すその文字に
いつまでも
慣れることができない



 
 まず一節目は、とても懐かしい日本の光景が簡素に描かれています。あたかも奥村土牛のデッサンを
みているようです。しかし、この懐かしい光景は一節目の終わりで一気に、<私>の内部に収斂されていきます。これは、この詩の面白いところであり、不思議なところです。
 二節目は、記憶のもつ不思議さをまざまざと感じさせてくれます。
 <母の心臓の音が 私の背中に伝わった それは私に 文字というものの 激しい鼓動を伝える音だった>恐らく、作者はその鼓動をいまも鮮やかに感じているのでしょう。そして、この詩をよむ私もその鼓動
に共振させられてしまうのです。
 記憶の本体は過去にあるのだろうか? それとも今にあるのだろうか? いずれにしても、記憶には、
とても不思議なエネルギーがあるような気がします。この詩がそのことを証しているといえます。
 さらに、最後の節では、記憶は未來におよんでいるとさえ感じられます。さてはじめの懐かしい日本の
光景はどこへいったのでしょう? 今も未來もこの鼓動のまわりを漂っているのでしょう。

「夏時刻」水野るり子   境界を生きる [something blue]

      夏時刻         水野るり子


夏のいちにち
森の周辺をさまよっていると
おばあさんが切り株にこしかけ
青葱いろの髪を束ねたまま
うっすらと少女になりかけている
( 夏がゆるやかに胸をひらいて
その襟もとにわたしを呼んでいるのだ)
大気には
ちらちらと青いしみが揺れ
草のふみしだかれた匂いがする
見なれないものたちが
あたりを大股に歩いているのだ
(植物たちの夢が
かぐわしい液体となって
地下の古層から滲みだしてくる)
マメコガネ、カマキリ、カマキリムシなど
おおきな夏の肉体に
たえまなく出入りしている
かれらのささやく羽音は
生きものたちのとぎれない夢のようだ
(だが…わたしはふたたび
ここに帰ってくることはないのだ)
(たとえ…輪廻転生があったとしても?)
自問自答するわたしに
青葱いろの大気の底から
「なら…あたしをたべて」という声がする
ふりかえると 少女は
ひざのあたりまで 露にぬれて
秋のきのこになりかけている


 
 前に哲学か物理の本で、時間から空間へ、空間から時間へと移動するといったようなことを読んだことがあります。そのとき、気になったことは、(いまはそれ程ではありませんが、私はこういうことを持続して考えることは苦手なのです)もしそうだとするならば、時間と空間の境目はどうなっているだろうかということを漠然と考えたことがあります。
 ところで、この詩人の作品を読んで私がいつも感じることは<時間>です。時間の奇妙なリアリィティです。奇妙なというのは、日常の時間とは違う時間を強く意識させられるからです。
 たとえば、この詩では、
<夏がゆるやかに胸をひらいて その襟もとにわたしを呼んでいるのだ><植物たちの夢が かぐわしい
液体となって 地下の古層から浸み出てくる><おおきな夏の肉体に たえまなく出入りしている>などは時間をあたかも風呂敷のようにひろげたり、たたんだりしているようです。
 この詩人は時間と空間の境目を見たかも知れない、あるいは見ようとしているのかも知れない。いずれにしても、この詩人にとって<夢>決して単なる夢ではなく、時間の発見の場なのではないでしょうか?
夢のなかでは、ときとして、時間は海のようにひろがったり、森のように奥ゆきをもっているように思われたりします。しかし、それを、その感覚を、目覚めていながら確かめることはとてもむずかしく、そしてこわいことであると思います。この詩がメルヘンのようでいて、しかも何かリアルな緊張感があるのは、時間というものがこの詩人にとって容易ならぬものであるからなのだと思います。

「あらし」井坂洋子  境界に生きる [something blue]

   あらし      井坂洋子


木々との婚約時代もすぎた
風雨が細枝をちぎり
震動が木を降りるが
間断なしに
走査線に運ばれてくる
テレビ電波が脳髄に侵入し
たぶたぶ揺れ 腹をくだっていく
便座で尻の輪をつける 一家族のしるしが
うすれる時刻にまた帰ってくれば
異形の者になっていても
気づかれないか

地殻を両足で踏んで
震動がのぼってくる快さに歩く
ざんばらの風を私流に受け
港まで来てみるが
なにも考えられない
メサイヤコーラスのない貧しさだ
店に入り
蒸したアサリを
食欲のせいではなく口に入れる

燭台のあかりが床におちるあたりに
店の番犬がすわっている
組立自転車も一台 あがりかまちの暗がりで
きちんと身を折って

犬と 荒れた海を見たいと思う
断末のくるしみと向き合うときの従順さで
ふだんは狭い庭を一周し
文句を言わず
バッタの足などを夢中で噛んでいるだろうが
倦まないお前と
地のおくるみの中で
息をひそめて降誕を待つ間
あらしは通り過ぎるだろう
埠頭の鳥たちが違った空気の層からうまれ
擾乱し
朝日に吸収されいくとき
一回だけつよく
ギャーと啼く声をいっしょに聞くのだ


  この詩を私が好きなのは、詩全体に何ともいえないユーモアが感じられるからです。それがこの詩人の生来のものであるかはよくわかりませんが、この作品にかぎっていえば、ことばそのものにユーモアの
機能があるようで、そうなると、やはりこのユーモアはこの詩人生来のものということになると思います。
 ユーモアはたとえば、
<風雨が細枝をちぎり 震動が木を降りるが>
<テレビ電波が脳髄に侵入し たぷたぷ揺れ 腹をくだっていく>
<便座で尻の輪をつける 一家族のしるしが>
というふうに次から次へといくらでもあげられます。そして、肝心なことはこれらのユーモアが決して同じものではなく、少しずつ微妙にちがっているいうことです。
 それらのことばは読んでいくうちに、、私の中で何かがぐらぐらっとしたり、ぴょんぴょん跳ねたりして、何かしら自由というか、それでいていつのまにか未知の世界に入ってしまったような不安な感じになります。その世界は人と物、内側と外側、昨日と今日等々の境界ではないかと思います。その境界を生きようとすると恐らくユーモアが必要なのかも知れません。ただここで注意しなければいけないことは、ユーモアといっても決して笑いや楽しいことだけではなく、この世の始まりののような、あるいはいちばん深い所からきこえてくる声さえ含まれているということです。そのことはこの詩の最後で感じられます。
 もしかしたら、現代の現実を誠実に生きようとして、それをなぞっていくと、こうしたことばのユーモアの
機能が是非ともひつようなのかも知れません。というのは、この詩には、「脳髄に侵入するテレビ電波」
「便座の尻の輪で確認される一家」「食欲のせいではなく口に入れる蒸しアサリ」など現代生活の一部が注意深く記されているからです。それはあたかも、短編小説のエッセンスのようであり、それがこの詩の面白さであると思います。

とても暑い日に [めちやくちやに]

 とても暑い日に、つまらない仕事と面白い本の板挟みになり、お風呂に何回も入り、真夜中に眠られず
それでも昔と違ったやり方でファイトし、なんとかかんとか二つやり遂げ、まだ二つあります。生きてることになかなか満足しています。あなたはどうですか?暑くお見舞い申し上げます。
 さて、ポール・オースター編の「ナショナル・ストーリー・プロジェクト」は9.11の二日後に出版された本ですが、政治的でない、格好があまりよくないけれどなかなか愛すべきアメリカが読めます。これはポール
・オースターの小説ではなく、一般から募集した4000のお話から、180選び、ラジオ放送で彼が朗読したものを本にしたものです。喜び、悲しみ、ユーモア、瞑想、夢、すべてあります。アメリカ人が語るアメリカの物語です。ひとつだけ、ちょっととりあげてみますね。
 
 ヒグリーでの一日
 
  ある日、まだ若き公認会計士だった私は、アリゾナ州ヒグリー近くにあるクライアントの農場を訪ねた。
私たちが話していると、網戸を引っかくような音が聞こえた。クライアントが言った。「こいつを見てください」。彼は網戸のところに行って、扉を開け、かなり大きなヤマネコを部屋のなかに入れた。生まれてすぐアルファルファ畑で拾われて以来、ずっと家族の一員なのだという。網戸が開くと、ヤマネコは浴室に駆け込み、便器に飛び上がって、用を足そうとしゃがみこんだ。終わると、床に飛び降りて、うしろ足で立ち上がり、体を伸ばして、水を流した。

                          カール・ブルックスビー
                          アリゾナ州メーサ 
 
 

「トゥルー・ストーリーズ」 [めちやくちやに]

  ポール・オースターの「トゥルー・ストーリーズ」という本を入江由希子さんから借りて読んでいる。まだ全部読んでいないが、この本を読みかけてから、二つの不思議なことが起こった。ひとつは、この本にでてくる短いお話はある程度はほんとうのことではないかと思うのだが、どこかはフィクションで、最後の落ちというか、つじつまがあうようになっている。そのなかで、最初あたりで大好きな話が出てくる。
作者はとても裕福なうちに生まれそだったのだが、両親が働いていて、そのお金ために離婚しなければならなかった。どうしても作者はお金を稼ぐ事が苦手で物書きとしては、贅沢な副業もあったのに、それを放棄して、カスカスの、つまり、食うや食わずの物書きの仕事をして、フランスの田舎のお城の留守番をしながら後から結婚することになる女の友達と一緒に暮らしている。ところが、物書きの仕事の収入はいつも2ヶ月遅れて゛やってきたり遅れたりする。お城の二人は本当に飢えてぎりぎりのところを、まるで天使
か月光仮面のようなナショナル・ジォグラフィックの社員の人が現れるのを待ち、お城に泊まったり、食事をしたりするホテル代ぐらいのお金を融資してもらっていたのだ。今回もとても飢え二人は最後のとっておきの食べ物をオーブンに入れて散歩にでかけると、食べ物はすっかりこげてしまった。それでかなり深刻に
絶望的な時間を何時間かすごしていると、なんとまあ天使のようなあの男が青い車に乗って現れた。そこで、読者であるわたしは深く感動して夕暮れの窓をながめたのであるがちょうど、それから、2週間もしない内に、私たち夫婦は「ナショナル・ジォグラフィック」を約100冊もあるひとからプレゼントされた。美しい写真の本で、たとえば、謎につつまれたカモノハシの生態を研究する女の学者とか
鯨ははじめ地上に住んでいて、足がはえていた化石を見つけた話とか、中国に入っていき中国人の生活を記録したアメリカ人だとか、アホウドリのおおきな姿を撮影した日本人だとか、水野るり子さんが好きそうな話か゛いっばいのっている。フランスのレヴィ・ストロースもこの雑誌を愛読していたそうである。
二つ目の偶然は、わたしはル・クレジオの小説をとても好きであるが、もうひとつ、このポール・オースター
のような方法の短編なら、つまり、本当のことは本当ことなのだが、やむ得ずフィクションにしているという
方法がとてもすきになって、まるでブログ向きの短編小説ような気がした。あまりグルメな小説より、ひどくリアルでなにか精妙な偶然によって創られたこの世に生きる不思議を感じさせてくれるストーリー、詩人でもあるし、なにしろこの困難な時代を生き抜き、なにかしら納得させるものを与えてくれる。
いつかこういう小説を書けたらいいなと思う。

一つのながーい小説のように [めちやくちやに]

 「ヘルムート・ラックと別れたのは、ただヘルムートが日本に住みたいと言い、わたしがフランスかドイツに住みたいといったからよ」とクミコはいった。クミコはいつもむかしのことを今のように、いまのことをひとつのながーい小説のように話した。だから、そばにいると、わたしはいつもこんがらかってしまうのだ。
 ヘルムートというと、わたしのなかに国立の緑いっばいの麦畑がひろがり、うすい航空便の便せんにはさまつたちいさい写真をわたしとタケミは何度も何度も眺めた。青年の写真は三分間写真でうすらぼやけていて、こちらを向いていず、あまり目立ちたがり屋には見えなかった。「どんな人だと思う?」ときくと「ふーん、おもしろい。」といったきりタケミは黙った。「おもしろいって?」再度聞くと「すこしひょうきんで、ぼくらとそんなにかわらない」。「4月26日にシベリアまわりでくるっていってるわ。ほんとにくると思う?」「まあ、くるんだろうなあ。」「もしくるとしたら、ここに4人もねむられないわ。引っ越さなくっちゃ」「うん」そこでわたしたちは国立の北口から南口に引っ越したのだった。一階か゛六畳と台所、二階が六畳、これでかろうじて
4人暮らせる。4月26日は昼寝をしたくなるぐらい、わたしは疲れた。夕方、もう来ないかと思うぐらい遅く、たよりない電話がかかってきた。「えっ、いまどこ?」「国立駅よ」すると映画をみているように、映画のなかに入っていったかのように世界がぐらりと動いた。
その大きな男はわたしとおなじ年で、まだ25で2メートルもあり、オーバーは4キロもあり、靴は13文もあった。ヘルムート・ラックは愉快な男で外人みたいな気がしなかった。わたしは彼らが何を食べるかよくわからなかったので、買い物はしなかった。「大丈夫」クミコはいった。クミコとわたしはスーパーマーケット
に行ってあじの開きとほうれん草とおとうふを買ってきた。そして、その夜、クミコはお料理して、ヘルムートが使いにくそうにお箸であじの開きをたべたのだ。次の日、国立のひろい道路を4人であたたかい春の
ひざしのなかを歩くと、世界でいちばんしあわせなのは、わたしたちだと思ったくらいだった。

ベッドのひも [めちやくちやに]

 ところで、クミコはお母さんやその他家族のお墓を岡山から東京のどこかのお墓へ引っ越しさせるために、パリから里帰りしてきたのだった。お母さんは広島の病院で亡くなつたのだが、もう五年も岡山に誰もお墓参りに
くるひとがいなかったので、曹同寺というお寺はかんかんになって怒っていた。第一どこに連絡したらいいのかわからなかったのだ。クミコはお母さんのながーい介護の疲労のため、お母さんが亡くなる直前に盲腸炎になってしまった。妹さんはお葬式が終わると仕事の遅れを取りもどすのに必死だった。そこで曹同寺は待っても待っても現れないお墓の持ち主に業を煮やして看板を立ててみんなにうつたえていたそうである。なんにも知らないクミコたちはさんざん怒られて、五年分のお墓台をとられなければならなかった。クミコは、広島の病院はひどかつたとしきりに腹をたてる。「どうして?」とわたしが聞くと「ベッドにひもがぶらさがってないからよ。つい昨日まで起き上がってそろそろとでも歩いていた年寄りは、入院したとたんに起きあがれなくなるのは、つかまるひもがないからよ。」クミコは日本に帰ってくるといつもいつも生活習慣の違いに悪態をつき、へとへとになってつかれて帰っていくのだが、なるほど、フランスの病院のベッドには、ひもがあるらしい。わたしは一度だけ、ゲーテの最後の寝室というものを写真てみたことがある。そこにはベッド以外に椅子ひとつしかなく、しかも、頑丈なひもがぶらさがつていたのではなく、張りわたされていた。ゲーテはなんども
死にそうになりながら、また回復してベッドから降りることができたのは、その命綱のひもがあったのかとおもった。日本の国が西洋から実にいろいろなものをものを吸収したのはよかったけれど、ひもまで
は吸収するのを忘れてしまったのだ。畳のうえの布団のうえでねむつているひとは、元気になれば畳に
足をついて起きあがることができる。しかし、ベッドのうえではなかなかおきあがることができないかもしれない。それは本人にとつても家族にとっても重要なことであるかもしれない。

えっ、と山本楡美子さんはいった。 [めちやくちやに]

 それは、とても不思議な写真だつた。ベニスでエレンが撮った写真で、大きな煉瓦の壁のなかに、ドア
のような形をしたものがあり、そのドアはぴったりしまっていて、けっしてこちらから開かないようになっている。そのうえに、蔦の枝が縦横無尽に伸びていて、ますますそのドアは開けることができないのだ。
 第一、そのドアはこちらから開ける取っ手がない。なんのために、そのいりぐちはあるのだろう。ひじょうに高いところに、人間が決して登れない所にそのドアはある。それは、ベニスのサン・ミケーレ寺院にあるらしい。「ええっ」と山本楡美子さんは声をあげた。「ヨシフ・ブロッツキーの墓だわ。それからイーゴル・ストラビンスキー、それからもうひとりのロシア人の名前があり、「あら、エズラ・パウンドも」とやまもとさんはいった。それはもう外に出なくてもいい人の住まいだった。ながいこと外国で暮らした亡命者の墓だった。
 ブロツキーは何年もベニスに滞在し死をまちながら、そういう小説をかいたのだった。わたしは確かその本を買ったのだが、なぜか読めなかったのだ。ベニスの墓はどうして、そんな上の方にあるのか、おそらく、土のなかだと、水がすぐ侵入してきて、跡形もなくなるかもしれなかった。「でも、奥さんはどうするのかしら?」と聞いたら「さあ、それはわからない」長い間ブロツキーの詩やインタビューの翻訳をしてきた
彼女はいった。

8月6日に [めちやくちやに]

  8月6日に、九州の福岡から、田島安江さんが棚沢さんの車に乗って、ふたりで我が家にやってきて、
詩誌「something2」の編集会議を開いた。田島さんは13日に98歳のお父様がなくなられたばかりなので、ほんとうは大変なのに、元気にやってこられてびっくりした。3人で長時間にわたり、いろいろなはなしをした。これで、3回目なのに淡々と話し合い、落ち着いて打ち合わせができたと思う。とても暑い日なので、クーラーを二つもつけた。うどんなど冷やして食べた。ちょっと前までは会うこともなかったのに、こうして、落ち着いていて、びっくりした。夕方近くになって、山本楡美子さんがやってきて、プラハからかえつたばかりなのに、カフカの家に行ったりしてきた話など平気でして、びっくりした。こんなふうに、なんでもなく
そうして、平気でなにか話し合いができるということに、わたしはなにもできないのに、ただただかんげきしていた。みんながかえつたあと、疲れて眠ったり、原爆のテレビをみたりした。今日も原爆のテレビをみた。こういうことは、夏だけでなく、冬も春も秋もすこしずつ放映してほしいと思う。
 クミコから電話があり、エレン・フライスが日本にくるかもしれないから、そのときはあってほしいといわれた。急に、気の小さいわたしはどきどきした。「芸術のあと、芸術に住まい続ける」とエレンの所属する本のひとつはいっている。なにか時代が変わっていく驚くべき日々にわたしたちはいるのだとおもった。山本さんが借りている畑でそだてたトマトをかじると昔のトマトの味がした。トマトはまだ健全である。

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