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川越文子「園丁は静かに歩く」大地が育むもの [something blue]



園丁は静かに歩く    川越文子

太陽はまだ低く
春菊の露をかすかに照らし出す
葱の筒は夜の話をすいあげたまま
丸く丸く立てり
大地み畝の穴にも
いまだ残る夜の声
ひとつきりの美を称えるかのごとく
雑木林の枝に張りめぐらされた蜘蛛の網に
露 光る
朝ぼらけ 白い背中
まあ お父さん速いこと
もう草取り?
いえ振り向かないで
わたしが横を過ぎるまで
死ののちもこうしてときどき
庭に出でくるお父さん
山裾の雑木林で樫の葉が一枚落ちたのだ
谷川の水が
その葉を乗せてこっちへ来る
わたしが立つところまで
園丁は静かに歩く

                     ※

 この詩は短くて、小さい詩ですがきらりと詩人の光を放っている、私にはそう思えます。
 最初は古文の調子を感じさせながら朝の大地(畑)が目覚めていくのが語られています。
 大地か育むものは春菊や葱や大根や無花果だけではなく、私たちの言葉も同じかも知れない。古文は私たち今使っている言葉の根であろうか、それがこの詩の初めに使われているのは、消して偶然ではないと思われます。そうした畑のなかで亡くなった父と出会うのは自然であり、しかも奇蹟でもあるのでしょう。
 とにかく、この詩人は、朝の畑のなかで、父を見た。
 それがこの詩の始まりである。

今井好子「揺れる」言葉との出会い [something blue]


揺れる     今井好子

ひさしぶりに帰省してみれば
父も母も揺れていました
子供が子供がと
忙しいけれどおおむね楽しくやってきた間にです
揺れだしたのは父が先か母が先か
なにがあったか
どうしたのか
面と向かっては聞きづらく
後ろから
父と母の揺れる背中ばかりをみていました

久しぶりに帰省してみれば
生まれ育った家も
庭先のねぎも仏様の菊も
トタンぶきの小屋も揺れていました
私をはぐくんた敷地の
どこからなにかが揺れだしたのか
皆目わからないまま
なにもかも揺れていました

父は揺れながら時間をかけて大根をぬき
母は時間をかけて大根を煮てくれました
私は何も聞けず時間をかけて大根を食べました
その夜揺れる父と揺れる母の間で横になり
右手は父の手をにぎり
左手は母の手をにぎり
父と母に揺られながら
静かにめを閉じました
屋根をたたく夜の雨音が続いていました

                       ※

 私はこの詩に民話のような、寓話のような遠さと近さを感じます。いつの間にか、私も同じところに
行く夢をみているような気持ちになります。それは「揺れる」という言葉が持っている不思議な力です。その力に気づいたのが、この詩人の優れた心でありね気概であろうと思います。
 同じような詩は誰でもかけそうですが、決してそうではないと思います。
 その年流行した言葉が新聞テレビで発表されますが、この「揺れる」も今年の流行であってもいいのではないかと私は思います。
 「言葉とは何か?」
 私はうまく言えませんが、詩を読んでいて、時々その答えに出会うこともあります。その一つがこの詩てす。その答えは決して大げさな物で歯はないのですが、時折、口に含んでみたくなるチョコレートのようなものです。
 

青山みゆき「黒い空」闇の場所 [something blue]


黒い空    青山みゆき

どろどろと黒い空が鳴っている
わたしは通いなれた道を自転車で突っ走る
空は途方にくれて
泣きながらわたしの頚すじをなめる
見なれない雲の上では
深海魚たちが
くちびるを尖らせて順番を待っている

疾走する雨に濡れた電柱に
あなたではない
あなたでもないなたを
縛り付ければ
わたしのなかでとけてくれますか
わたしの寂しさをはがしてくれますか
耳を思いっきり噛んで
血が流れるくらいのことをしてくれますか
頭をかかえこんだ空と
わたし
もうこれで
他人ではありません

どろどろと黒い空が鳴り
深海魚たちが歯を立てて降ってきた
あれから
わたしたち
ずっと家にたどり着けない

                   ※

 「どろどろと黒い空が鳴っている」

 この初めの一行を読んだとき、私は私のいちばん深いところで何かが動いたような気ガシマシタ。そして、更にこの詩を読んでいくうちに、これはとてつもないアナーキーな世界であると思いました。
 外の世界と私の内部の世界が殆ど地続きのようで、外の世界と思っていた物が、実は私の内部で
あったりして、呼吸するのも難しい感じさえします。
 そもそもアナーキーとは時代や社会のものであり、決して一人の人間のなかにあるものではないと
思います。この詩にはアナーキーとしかいえない深い闇があるような気がします。
 それが現代という時代を写したものなのか、それとも一人の人間の闇から生まれたものなのか、
私にはよくわかりません。しかし、ただ時代の風潮であるとするならばね私は決してこれ程、この詩に魅かれることはなかったでしょう。

和田まさ子「ひとになる」変身の願望 [something blue]


ひとになる   和田まさ子

夜のうちに
豹になっているわたし
黒い斑点の美しい模様の体で
アフリカの大地をかけめぐり
肉をひきちぎって食べていた
そのスピードがゆるゆる落ちて
朝がきた
服を着替え
パンとサラダを食べ
化粧をし 口紅をひいて
鏡をのぞき込む
ひとらしく見えるだろうか
豹のまなざしになつていないか
飢えた心が見透かされるはしないか

バス停で待っていると
待っているのは
バスなのか
餌食となる動物なのか
判然としない
まだ、眠りと現実のあわいにいるようだ
二月の晴れた日にアフリカではなくて
ここにいる不思議にとどまっている

あそこにもひとり
夜、なにかになっていた女性がいる
懸命にひとになろうと努力しているのがわかる


ひとになるのがいちばんむずかしい

                       ※

 フランツカフカは重要な作家の一人で、その作品の中手も「変身」は何度も詠みましたが、その度に新たな興味がわいてきました。この小説のテーマは歴史や社会によってもたらされる個人の疎外
、否定といつてもいいと思いますが、私の心に残っているのは「変身」した青虫に対する自分自身の
親近感というか、いとおしさです。
 そのことから、私は思うのですが、「変身」は私の一つの願望であり、「究極の逃げ手」ではないのかと思いますが、この詩を読んでますます、得心を得たような気がしました。

草野理恵子「蕗の風景」真実に美あり [something blue]


蕗の風景     草野理恵子

私の心の中に蕗の葉の生い茂るひとつの風景がある
汽車の煙がかかり薄汚れた大きな蕗の葉は
恐怖のようにどこまでもむ続いている
葉の上に白く蠢くものをみつける
助けを求めるに似た両腕の動きに君の声が重なる

夜ごと犬のように扱われ口に綿を詰められる
捨てられた空き箱や発砲スチロールの闇
錆の多い街は降る雨さえ鉄が混じる
赤く細かに鋭い粒が手のひらを傷つける

その声は君だったのだろうか
誰とでも繋がれる水路が蕗の下にはあり
ふと夢と夢をつなぐはいの話を思い出し水流を逆に泳いでみる
天井に蕗が青黒い

毎日ひとつその風景の中にもものをすてに行く
蕗の葉の上に根元に 生い茂る暗闇に

                      ※

 過酷な生の姿が一枚の風景画のように、きちんと描かれています。普通だと、こういった内容、テーマの詩はなかなかすすんで読む気にはならないのだけれども、この詩破損な私を惹きつけてやまない静かな力があります。

 「私の心の中に蕗の葉の生い茂るひとつの風景がある」

 この言葉は作者の告白であり、同時に「私」への伝言であるとおもいます。この一行によって、この詩のすべてが決まったといっても良いと思います。私には人生という一枚の風景画を描いている一人の人間の姿が浮かんで来ます。その動作は決して大げさではなく、私を怖がらせる物でもありません。自分自身と読者に納得させると願っているようです。絵を描く絵筆のように詩人は言葉を選んでいます。そして私の前には過酷であるが、美しい絵が見えます。

中神英子「砂丘」孤独 [something blue]


砂丘   中神英子 

よる 鳥が来て
わたしのかたちで啼くので
私は砂を握り眠る
鳥がわたしの両手に翼をそえて
その啼き声通り
わたしが あした はろばろと歩む
砂丘を作ってくれるように
やわらかに美しく流れる風紋と
乾いた清涼な空気の中に
新しい夜明けをもって
立てるように・・・・・・・・・・・・と
まだくらいうちに
わたしの方向へ鳥が来て
わたしのかたちで啼くことを
わたしは知っているので
よる
わたしはわたしの分の砂を握り眠る

                   ※
 この詩は私を私の知らない異次元への世界へとひきこんでいく。
    
    「よる 鳥が来て
     わたいのかたちで啼くので
     わたしは砂を握り眠る」

 で始まり、声高でも刺激的でもなく、静かにかたられていきます。
 決して今まで見たこともない。聞いたこともないとは強く感じないのですが、これまでの私の世界の
向こう側を通っているような気がします。
  
    「わたしがあした はろばろと歩む
     砂丘を作ってくれるように」

 その世界は決して堅固ではないのだけれど、私の内側と同じぐらい、しっかりと脈打っている。
 異次元だと思っていた世界は、もしかしたら、私自身のなかに遠い昔からあったかも知れない。

    「まだくらいうちに
     わたしの方向にへ鳥が来て
     わたしのかたちで啼くことを
     わたしは知っているので
     よる
     わたしはわたとしの分の砂を握り眠る」

 この詩人は独りで自分を抱きしめているのだろう。
 詩はこの詩人の唯一の支えであろうと思います。

宮尾節子「ニューイングランドの朝」詩と世界 [something blue]


ニューイングランドの朝  宮尾節子

「朝は露をおくところ*」
これはニューイングランドの
詩人のこしばだが……

泣いた瞳も
濡れたほっぺたにも
落ちた恋の
池にも

白い封筒
切手が一枚貼られたように
ことばに ひと粒の
光る露玉を載せて

すべての泥濘
湿った露地や
乾いていない傷口に――

ニユーイングランドの朝が
発見されている
詩人の手によって――

    *エミリー・ディキンスンの詩のフレーズにより

             ※
 この詩は「ニューイングランドの朝」という言葉によって成り立っている詩であると思います。
 これ以外の言葉は不必要だと思える程この言葉だけで成り立っているのです。宮尾さんにとって「ニューイングランドの朝」は唯一無二のものであり、発見だったのです。これを宮尾さんがエミリー・
ディキンスンの死のなかで発見しました。と同時に、宮尾さんの内部にも、全く同じものを発見したのです。そのことが宮尾さんにとって、いかに確かなことであり、大切なことであるかは、二節、三節、
四節の言葉のひとつひとつから、感じ取れます。そのなかでも、特に「すべての泥濘 湿った露地や
 乾いていない傷口に―― あまねく 暁を届ける」にそれを感じます。

 そして、宮尾さんはエミリー゛ディキンスンに頭をたれながら、「ニューイングランドの朝」を書いています。
 世界各地に絶景というものがあり、多くの光景を心に焼き付けます。
 私もお金と時間が゛許すなら、こうした絶景を体験死に行きたい。でも、一方ではある日、ふと見あげた街が全く新しい光景として感じられることもあり、それはある意味では私にとって絶景であると
言えます。そして、ここに私熨しが生まれることもよくあります。恐らく、この詩人にとってニューインクセラントの朝はそうしたものであるのでしょう。

狩野貞子「空」優しい言葉」 [something blue]


空       狩野貞子

3.11
日本列島の空いっぱいに
たくさんの靴が 漂っている

泥にまみれたスニーカー 紅葉色のビンヒール
傷だらけのゴム長靴に 黒い革靴
真っ白いフェルトの靴は
掌二隠れてしまうほど小さくて

うねる高波に呑み込まれたとき
黒い濁った海から
空は全身で抱きかかえた

一緒に流した 汗の匂い 魚の匂い
膝を伸ばして 町を闊歩した
幸せなひととき

三年余りが過ぎたが
2,609足の靴がまだ見つからない

一足ずつ
すべての靴が
持ち主に届いたとき

青い空は
やっと高みをます

                         ※
 この詩人には童話作家が持っている包容力とユーモアのセンスがあると思います。
 それは初めの三行と終わりの二行に

  3;11
  日本列島の空いっぱいに
  たくさんの靴が 漂っている

  青い空は
  やっと高みをます

に到ルまで私によく感じられます。
 一つの言葉の選び方、つながり方、それは何とも優しくて、たっぷりしていて、ユーモラスなのです。
 この詩の内容は3.11の災禍であり、一人一人のいのちのことなのですが、それにもかかわらず、
私には「悲惨」であるとか「絶望」であるとかという言葉は少しも浮かんできません。
 でも、私の心は、私の知らないところで悲しんでいるようです。
 それはちょうど私が幼い頃、絵本をよんで初めて怖い世界を知った時のようです。そんなとき私は
一人でしたが、誰かが優しく見つめていることも感じました。
 私はこの詩に同じものを感じました。詩の神さまが舞いおりたのでしょう。
 そして、思わず空を見あげました。私の心のなかの空を。


峯澤典子「運ばれた花」朝早いカフェ [something blue]


運ばれた花   峯澤典子

カウンターの周りが薄く明るんだ
朝早いカフェ
向かいの花屋にランジス市場から着いたばかりの花が
並べられるのを見ていた
細いが よくしなう枝を持つはずの庭薔薇は
ほかの花よりも
器から大きくこぼれ
手折られた苦しみのかたちを
乱暴に 解いてくれる風を待っていた

本来のうねりをしずめ
自分の花影にもたれた枝は
数日前 公園のベンチに座っていた男を思わせた
男は服の色も判別できない木影で
寒いのだろうか 膝に何枚も新聞紙を広げ
そのうえに両肘をつき 額を支え
少し波打った白髪まじりの髪と痩せた首筋
湿った長い手足を
雨あがりの匂いにさらし
手折られた姿で 風を聞いていた

視線を合わせるのも そらすのも
こうした花に姿を重ねるのも、不遜、と知りながら
目はなぜ瞬時に識別するのか
底に満ちる孤独を
底が深ければ深いほど
見つめたあとは すべもなく離れるしかないというのに

すべての花が店頭に並べられ
花屋の扉がいったん閉まると
手折られた庭薔薇も男も 朝日に溶け
丸まった新聞紙だけが
風に運ばれていった

                     ※
 光とか色とか風というものは、本来それ自体は形もないし、言葉や絵の具などで描くには適していない。でも、もしかしたら、そこにしかないもの、そこでしか現れないものもあるのかも知れない。
 たとえば、それは能の世界だったり、イギリスの風景画家ターナーの世界のようなものだ。
 私はこの詩を読んでいると、そうした世界を同じようなものを感じる。
 たとえば一節目の終わりの二行

  手折られた苦しみのかたちを
  乱暴に 解いてくれる風を待っていた

 にそれを感じる。そしてねその内実は次の節に注意深く語られている。それを読んでいくといつの間にか、私も能やターナーの絵にはいっていくような気持ちになる。
 しかし、その世界は決して幸せなものでない。

  底に満ちる孤独を
  底が深ければ深いほど
  見つめたあとは すべもなく離れるしかない

 しかも、不思議なのは、こうしたことが日常のカフェで起きているということである。そこに私は詩の
現代性を強く感じる。


  

志田道子「忘れていたもの」我々はどこから来てどこへ [something blue]

忘れていたもの   志田道子

電車が鉄橋にさしかかると
明るい銀鼠色が
目の前にいっぱい広がった

誰も未だ
春のことなど思い出してもいないうちに
鋭い太刀が斬りさいていた
その真一文字の切口にだけ
日の光が射し込んで
水平線がどこまでも続いていた

空も
河口も
薄雲鼠色
河の真中を
扇子をだんだんと広げて行くように
白波の航跡を従えて
貨物船が音もなく
海に出て行こうとしていた

男は吊革にぶら下がって
片手でコートの胸の釦を確かめ
目を細める
ずいぶん長い間
使うことのなかった
肩甲骨の間の
翼の根っこが疼く
こんな静かな
昼下がりには

                        ※

 「我々はどこから来て、どこへ行くのか」 
 この言葉を私はいつも忘れているようです。でも、突然思い出すこともあります。それはなんの前ぶれもなく寝私のなかに立ち上がってきます。
 ひとりで海を眺めているときだつたり、あるいは大勢の人に交じって街を歩いているとき、「我々はどこから来て、どこへ行くのか」と思うのかも知れません。
 この詩を読んではるかに遠い世界にさそわれる感じがしました。
 突然、目に飛び込んできた青い海、それは「目の前いっぱいに広がった」「鋭い太刀が斬り裂いていた」水平線がどこまでも続いている。
 たぶんこの詩人はひとりで自分の言葉を探していたに違いない。(それは私と同じではないかと思います)
 「ずいぶん長い間 使うことのなかった 肩甲骨の間の 翼の根っこが疼く」「我々はどこから来て
 どこへ行くのか」決して生と死のことたけではなく、私と鳥、私と魚たちとのことでもあるのでしょう。
 
 

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